黒ジャージ族の苦悩 その1
 

 皆さん薄々気が付いているとは思うのですが、私は、実は、黒ジャージ族の人間なんです。
 だいたい、仕事をする時も、買い物に出かけるときも、家にいるときも、いつも黒いジャージを履いています。これは、本当にラクチンな格好で、私にとってはこの格好以外に考えられないのです。もしできれば、お葬式や結婚式にも黒いジャージで行きたいのですが、さすがに女房が「そ・れ・だ・け・は絶対にやめてね!」と厳しい調子で言うので、お葬式や結婚式にはちゃんと礼服を着ていきます。でも、できればジャージで行きたい・・・。
もちろん赤や緑のジャージを履いていったら失礼だと思うのですが、黒だったら周りの人の色と同じだから、それほど目立たないし、失礼にはあたらないと思うのです。AdidasとかNikeとか、メーカーの名前が付いているところを手で押さえて座っていれば、誰もジャージだと気づく人はいないんじゃないかと思うのですが・・・・。
 何年か前、友人のお父さんのお葬式に参列した時に、とてもショッキングな思いをしたことがあります。その日は、ものすごい大雨の日だったのですが、私は喪服に黒の革靴で参列していました。おまけに黒いネクタイまでしているので、それは、私にとってはとっても居心地の悪い格好で、「早くジャージに着替えたいなぁ」などと思いながら、参列している人たちに混ざっていました。その時、大勢の人の中に、一人、黒い長グツを履いて参列している人がいるのを見つけてしまったのです。これは、私にとって衝撃的な出来事でした。と同時に、黒長グツ族という民族がある、ということを知ったのもその時でした。きっと、その人は、「大雨だし、黒なら目立たないから誰も気がつかないだろう・・・」と考え、何の戸惑いも無く黒い長グツを履いて、そのお葬式にやってきたのだと思います。私は、彼の長グツが目に飛び込んできた瞬間、「あぁこんな民族もいるのか!」という新鮮な驚きとともに、「気持ちはわかるよ!」という、その人に対するエールみたいな気持ちも同時に抱いていました。さらに、私が感心したのは、彼が相当に長グツを履きこなしていると思われたことです。というのは、その日は雨だったので、喪服のズボンの裾が濡れてしまわないように、彼はちゃんとズボンの裾を長グツの中に入れて参列していたのです。これはまったく正しい長グツの履き方です。逆に晴れの日に畑仕事をする時などは、長グツの中に泥が入ってしまわないように、作業ズボン(私の場合はこれもジャージですが)の裾を長グツの外に出して履きます。こういったトラディショナルな長グツの履き方を、彼が忠実に実行している、つまり、「今日は雨だからズボンの裾は中へ」、ということを、お葬式の席でもちゃんと実行しているところを見ると、黒長グツ族は、かなり伝統を重んじる民族に違いないなぁ、と私はその時思いました。
 私が視線を彼の長グツから彼の顔のほうに向けた時、私はさらに大きな驚きをおぼえました。長グツを履いてお葬式に参列する彼の表情には、誰よりも、死を悼み、そして冥福を祈る気持ちが、心をこめた形で表れていたのです。大げさな表情ではなく、さりげなくうつむいた彼の横顔、そこに、彼がおそらくはものすごくやさしい心の持ち主であるに違いない、と感じさせるものがありました。
 私が教訓として彼から得たものは、やはり、お葬式に参列する時には、死を悼む気持ちをどれだけもっているのかが大事で、逆に結婚式であれば、二人の幸せを祈る気持ちをどれだけ持っているか、ということが一番大切なことだということで、そういったちゃんとした心で参加すれば、着ていく服は別にどうだっていいんじゃないかと思います。私も黒ジャージ族として、もうちょっと成長して、しっかりした心を持つ事ができるようになれば、ジャージで出かけられる場所が増えていくことだと思います。
 ちなみに、そのお葬式の時に、遺族の方に「あの長グツを履いた方は、どういった方ですか?」と聞いたら、「あの方は、中野区で自然食店を経営されている方です」ということだったので、あぁ、黒長グツ族と黒ジャージ族は共通点があるなぁ、と思いました。 
 
 私が、黒ジャージ族になったのは、いや、正確に言うと、自分のなかに黒ジャージ族の血が流れている、ということに気づいたのは、北海道の酪農実習から東京に帰ってきてしばらく経ってからのことです。
北海道の牧場では、ほぼ一年中ジャージを履いて過ごしていたわけですが、農作業をする時はジャージの上にさらに繋ぎの作業着をきます。繋ぎの作業着というのは、ガソリンスタンドの店員や自動車修理工場の人が着ているあれです。牧場の生活では、家の中にいる時にはジャージ姿で、仕事に出かけるときは、その上からサササッと繋ぎの作業着を着て、長グツを履いて出かけます。そして、仕事から帰ってくるとサササッとツナギを脱いで、元のジャージ姿に戻るわけです。つまり、北海道では、ジャージはインナーになったり、アウターになったり、いろいろな機能を発揮しているのです。
そんなジャージと非常に親しい関係の、北海道での日々が1年間続いた後、東京に帰ってきてしばらく経ったある日のことです。二十歳になるちょっと前だったと思うのですが、私はふと気づきました。今は東京に戻ってきていて、搾乳も、牛のふん掃除も、畑の草取りもない日々なのに、私は相変わらずジャージを履きつづけてる。それで気づいたのです。「そうか、私は黒ジャージ族なんだ」。このことは自分にとって非常に大きな驚きでした。
私は日本に生まれ、まずまずの学力と、まずまずの運動神経をもちあわせ、そして、まぁまぁの性格で、友人関係もうまくいっていて、大人たちにも好感をもたれ、つまり、いい感じの少年だったわけです。このままいけば、日本の社会の中で、まずまず平均的な日本人としてやっていくには充分であるし、自分もそういった生き方をしていくのだと思っていました。ところが、私の中には黒ジャージ族の血が流れていたわけです。こういった経験は、そう多くの人が経験することではないので、なかなかその気持ちは解かってもらえないかも知れませんが、自分が黒ジャージ族であるということ、それは事実であり、どうあがいても、変えることはできないのです。それを受け入れて生きていくしかないわけです。これは自分にとって、かなり大きな衝撃でしたし、その日が私の人生最大の分岐点でありました。
 黒ジャージ族であることを知り、自分自身も驚きましたが、優秀な少年であった"私の過去"を誇りに思っている私の家族にとっても、かなりショッキングな出来事であったと思います。今は、黒ジャージを履いて暮らすようになってから、だいぶ年月が経っているので、家族もそのことに慣れてきてはいますが、心の底で、私が黒ジャージ族になってしまったことを悲しく思っている家族もいることと思います。しかし、このことは前にも述べたように、誰にも変えることができないことですから、私は覚悟を決めて、まっとうな黒ジャージ族として生きていく事にしました。そして、周りの人から多少の迫害を受けても、こちらから迫害を加えたりしないように注意し、なんとか周りと調和して生きていこうと努力しています。現に、私のおばあちゃんに「そんな、乞食みたいな格好して、っもう」とか言われても、むきになって言い返さず、「乞食は無いでしょ、せめて『貧乏くさい』くらいにしといてよ」と軽く反論するくらいにしています。大正生まれのうちのおばあちゃんは、古い人ですから、多民族でも調和していかなければならない、というような現代的な考え方ができなくても無理のないことなのかもしれません。あるいは、仮に、そういったグローバルな考え方が正しい考え方だということは解かっていても、感性の部分ではどうしても受け入れられないのかもしれません。随分前の話ですが、おばあちゃんが経営するアパートにアメリカの黒人の人が入居を希望した時も、「黒んぼはダメ」と言って断ってしまいました。でも、古い人は、古い人なりの感性で生きているので、世の中がどう変わっていっても、それを変えることは難しいことなのだと思いますし、対立しても疲れるだけです。でも、民族衣装を着ているだけでとやかく言われるのは、やっぱり少し困るなぁ。つづく。


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